2010年4月11日日曜日

鶴見岳一気登山大会の「下見」

金曜日の第3回別府遺伝医学セミナーでの特別講演は無事に終わった。内容もりこみすぎ(カウンセリング7例も)、説明不親切(エクソンーイントロンボーダーでの一塩基置換でmRNAの欠損がおきる機序とか)、理由説明抜きの観察事実羅列(転座保因者の習慣流産について)とか、いろいろ反省点はある。でも、座長の楢原先生(大分大)ほか、別府産婦人科医会の先生方にもご好評をいただきありがたかった。いつまでも遺伝の同じネタでしゃべるわけにはいかないので、大学での遺伝外来もっと頑張らないとね。

こちらでは鶴見岳一気登山は全市民的行事らしく、亀の井ホテルのフロントのおばさんも、不老泉という100円温泉で石けんとタオルを貸してくれたおじいさんも明日一気登山すると言っていた。別大マラソンなんかよりもひょっとしたら市民には身近なんでしょうね。
ちなみに「競争」として駆け上る「いだてんレース」の他に、ばらばらにスタートして自分でスタンプを押しながら歩きのぼる部門もあるので、おじいさんなんかはそっちの参加と思われる。



さて前日はせっかくなので由布岳でトレイルの足慣らし。まず別府駅前から湯布院行きのバスに乗って由布岳登山口(標高800m)まで。12時に登り開始で、13時に由布岳東峰(1580m)、下山は東登山道を選択し、14時に由布岳東登山口(=鶴見岳西登山口)(800m)、もういちど鶴見岳へ向けて上り、中腹(1100mくらい)をかすめて15時に鶴見岳ロープウェー(500m)までという道程。終盤は明日の一気登山道を逆向きに下った。しばらくトレイルに出ていなかったおかげで、脚や腿には相当ダメージが。翌日の下見、調整、というには・・・やりすぎでしたね。計3時間のトレイルラン。
一日中曇天で山の上の方は霧が濃く小雨も時々ぱらぱら。頂上付近は全く眺望無し。それでも由布岳正面登山道にはけっこうな数の人がいた。一方、由布岳東登山道〜鶴見岳西登山道はマイナールートのようで、誰にも遭遇しなかった。道標が朽ちていたり、道がわかりにくいところもたくさん。

別府二泊目は外勤先のビデオデッキに噛みつかれていた状態から無事救出されたアンジェイ・ワイダ監督の「大理石の男」を見た。スターリニズムに席巻されていた1950年代ポーランドの労働者の悲哀が描かれている。1970年代の映画なのに、ついこの前に滞在していただけあってワルシャワや地方都市の街並みにとても親近感を覚えた。

2010年4月10日土曜日

ポーランド大統領機、なんとスモレンスクで墜落

ポーランド大統領絶望か 搭乗機が着陸直前に墜落 4月10日17時51分配信 毎日新聞
【モスクワ大木俊治、ウィーン樋口直樹】ロシア西部スモレンスクで10日午前11時(日本時間同日午後4時)ごろ、ポーランドのレフ・カチンスキ大統領(60)ら同国政府要人が搭乗したツポレフ154型旅客機が墜落した。タス通信などによると、乗員乗客87人全員が絶望視されており、大統領や同乗のマリア夫人も死亡した模様だ。ロシア通信は、搭乗者数は132人だったと報じた。
同機は着陸直前にスモレンスクの空港付近で墜落したとみられる。当時、付近は濃霧だったとの情報もある。ロイター通信によると、ポーランド中央銀行総裁も搭乗していた。
カチンスキ大統領らは同日、スモレンスク州で予定されていた「カチンの森事件」70年の追悼式典に出席するため現地に向かっていた。第二次大戦中にポーランドの軍人ら2万人以上が当時のソ連秘密警察によって虐殺された事件で、長年、ポーランドとロシアの政治対立の一因となっていた。墜落機には、事件の犠牲者の遺族ら関係者が多数搭乗していた模様だ。
カチンスキ大統領は05年12月に就任。「反ロシア派」として知られ、プーチン前政権としばしば対立していた。プーチン露首相は8日に別途開かれたカチンの森追悼式典にポーランドのトゥスク首相と共に出席し、両国の関係改善を演出していた。
メドベージェフ露大統領は10日、プーチン首相をトップとする墜落原因調査の政府委員会設置を命じた。

僕にとってはショッキングな事故のニュースがとびこんできた。「スモレンスク」でまさかと思ったが、やはり「カティンの森」の追悼式典に向かっていたのか・・・。ポーランド人要職者が大勢スモレンスクで亡くなるとは、まさに「カティンの森」と同じ構図。もちろん陰謀ではないだろうが、ある意味「カティンの森」の犠牲者に加えるべきであろう。そもそもソ連によるこんな犯罪的事件がなければ、このような式典もないわけだから。
ポーランド国民はどんな思いだろうか。あらためて「カティンの森」が繰り返し喧伝され、反ロシア感情が盛り上がるのではないか。
ロシアとしては式典開催でポーランドとの宥和をはかろうと思っていたに違いないが、逆効果になってしまった。

2010年4月7日水曜日

今週末は別府で講演と登山競走

明後日4月9日金曜日に別府に飛んで「第3回別府遺伝医学セミナー」で講演をさせていただくことになっている。題は「周産期遺伝カウンセリングと出生前診断の実際」。19時~20時30分に西別府病院2階のカンファレンス室で行われる。
近隣の開業の先生方向け、あるいは学生講義の中でこれまで紹介してきた出生前診断について、具体例を4-5例あげて話そうと思う。遺伝カウンセリングでは、単に医学的情報の提供にとどまらず、カウンセリングという「コミュニケーションプロセス」を大事にしつつ、その中で倫理、社会規範にも配慮していかねばならない。きわめて社会的な医療である。そこに関与していくことの難しさ、面白さが伝わればいいが。
そのまま日曜日まで別府にとどまり、「べっぷ鶴見岳一気登山」いだてんレースに出場する予定。昨年7月にコースを下見しておいた成果を発揮できるか。富士登山競走のミニチュア版としてのトライアルにもなる。どれくらい戦えるか。楽しみ。ただしポーランドでの食生活が効いて体重オーバー気味。

2010年4月5日月曜日

「ベルリン陥落 1945」

ワルシャワからの帰途に読み始めたこの本を読み終えた。
ヴィスワ川を渡りワルシャワを占領し、東プロイセンを奪還して徐々にベルリンへ侵攻するソ連軍。ソ連軍の暴虐から逃れようと西を目指すドイツ人民。ベルリンに最後まで立てこもり次々と自死をとげるヒトラーをはじめとするナチスの幹部たち。中でも女性を襲った破壊的な性暴力を克明にしかし淡々と描いた点がこの大部の書物を衝撃的かつ説得力のあるものにしている。
しかしこの書の特徴は単に性暴力を「告発」しているわけではないところにある。例えば、特定のソ連軍将校と性関係の「契約」を結ぶことで不特定多数兵士からの性暴力を免れ物質的援助も得ていたドイツ女性が存在したことも叙しつつこのように言う。
「真相がレイプと売春の中間のどのあたりにあるにせよ、食料と保護を得るためのこういった契約は、女性を太古の、ほとんど原初の状態に戻らせた(608ページ)。」
ドイツとポーランドの間には、ナチス強制収容所、ワルシャワ蜂起のような凄絶な過去があり、ポーランドとロシアの間にも「カティンの森」のような大殺戮があり、ロシアとドイツの間にもこの書のように暴力を伴う侵攻をし合った歴史がある。現在これらの3ヶ国が接して共存していること自体が僕からすると驚異的に思える。殺戮の歴史を水に流せるわけはないと思うが、大陸で接して生きる必然なのか。

ところでこの本の「解説」が最低である。暴力と殺戮を否定しようとするスターリンはじめソ連共産党の態度を、なんと南京事件の「死者30万人」の虚偽を検証しようとする日本の識者になぞらえて共に非難するのだ。一緒にするな、といいたい。

2010年4月2日金曜日

帰国中の事件3つ

ワルシャワ最終日から帰国までの事件、その一。
選手団の乗ったバスがワルシャワ市内通過中に交差点で前のタクシーとコツンと衝突。タクシーが勝手にバックしてきた?大した衝撃ではなかったが、しばらく警察呼んでバスが使えなくなった。
その二。
ワルシャワの空港免税店で買ったコニャック1本をアムステルダムで成田行きの飛行機に乗り換える際の手荷物検査で没収された。どうして!免税店で買ったのだぞ!と相当(英語で)吠えたのだが、偉丈夫の男性係官が毅然と「EU圏外から持ち込まれた液体はダメ」「ワルシャワの免税店で所定のシール(封?)をしてもらわなければダメ」「ここでできることはない」と言い放つ。僕も"It's a pity!"とまで叫んだが、「ワルシャワの免税店に文句を言え」と言われプリプリと退散。機嫌最悪。
その三。
成田空港から帰り、坂戸までの直行バスが、川越駅前停車中に後退してきた前のトラックに「コツン」。警察呼んで、その間30分乗客は待ちぼうけ。1日に2回、乗っているバスが「衝突事故」を起こすというのもすごい偶然。僕が「事故運」をポーランドから輸入したかとも思ったが、もちろん黙っていた。

ところで今回の遠征では立命館大の十倉みゆき監督と、特に女子選手の無月経についてだいぶ突っ込んだ議論ができた。さすがに女性監督で、プレマリン+ルトラールなんて薬剤名がすぐ出てくる。ホルモン療法の考え方、ディビゲルなどの新しい経皮エストラジオール薬などいくつか教えてさしあげた。役に立てていただければいいが、何しろ関西が本拠地なので、直接選手を見てあげることはなかなかできないのが残念。