毎年、楽しみな埼玉医大陸上部の新歓コンパ。今年の新人に会ってみたら凄かった。
まずは岡部文子さん。知っている人はもちろん知っている。熊谷女子高時代、競歩でジュニア日本代表経験あり。都大路で5区もつとめた。2浪して埼玉医大に入ってきてくれた。競技への意欲は衰えていない。これからは長い距離も、と言ってくれている。一緒に練習するのも楽しみだし、再び名を轟かすようになるのも楽しみ。
次に轟 和典君。陸上の名門 農大三高からやってきた。全国中学出場経験あり、5000mも15分そこそこの記録を持つ。まずは体重を落とすところからかな。減量できて故障しなければ、あっという間に15分半までは戻るだろう。
短距離も充実。中山 雄太君、川越高校出身。短距離。200mで22秒10、400mで50秒13で走っていたとのことだから、もちろん即戦力。写真はとりそこなったがもう一人入部した200m22秒そこそこの○○君(ごめん、名前失念)とダブルエースで、リレーは完璧。
「オレはもうお呼びじゃないかも」とやや鬱気味になっていた上級生にも奮起を促した。強い下級生が入ってラッキーと思おう。リレーの強さは走力4番目の選手で決まる。君が伸びればリレーでメダルをとって卒業できるぞ、と。
今年は埼玉医大の陸上部に期待していただきたい。新人は6人。上級生も刺激を受けて頑張っている。まずは夏の東医体を席巻する予定。
2011年4月28日木曜日
2011年4月14日木曜日
腰椎骨密度66%(若年成人比)のショック〜どうサポートする?
66%!
最近も再び疲労骨折を起こしてしまった女子長距離走選手の相談を受けた。腰椎骨密度はなんと平均値の66%にまで低下していた。これまで40人以上の女子長距離選手の骨密度を測ってきていて、70%台にはもうびっくりしなくなっているのだが、さすがにこれは史上最低の値である。
実はこの選手は以前にも68%という数値が出ていて、無月経に対するホルモン補充療法を行っていた。しかし、この半年は行ったり行わなかったりで十分な治療ができていない。
さてこれから婦人科医としてはどのようにサポートしていけばいいだろうか。これまでの経過から、ディビゲル®と用いたホルモン補充療法を行っても骨密度維持は図れても増加は難しいかもしれない。しかしこの骨密度で競技を続けさせるのもリスキーすぎる。
私がおすすめしたのは経口避妊薬(低用量ピル、OC)である。
海外の文献には、「若年アスリートの無月経に伴う骨粗鬆症は、骨吸収の増加がないという点で閉経後の骨粗鬆症とは機序が異なる。ホルモン補充療法では十分でないが、(ホルモン作用のより強い)ピルならば骨量増加を期待しうる」という意見があることは以前より承知していた。ただしアスリートの出すうえで、吐き気、食欲増加、浮腫、体重増加などの副作用が少ないOCがなかなかなく、躊躇していた。
幸い昨年11月に登場したヤーズ®はこのような副作用が軽減されている。そこで今回、このOCを開始することにした。コーチはホルモン療法にあまり賛成でないらしいが、この骨密度でSかも実際に疲労骨折を起こしているわけだから「理想」を言ってはいられない。現実的に婦人科医ができる最善と思われるサポートをしていく必要がある。
なお整形外科主治医からは活性型ビタミンD誘導体であるエディロール®が処方が開始された。ここでビスホスホネート製剤を処方しないのは、やはり骨吸収の増加が原因ではないと見抜いているからであろう。賛成である。
最近も再び疲労骨折を起こしてしまった女子長距離走選手の相談を受けた。腰椎骨密度はなんと平均値の66%にまで低下していた。これまで40人以上の女子長距離選手の骨密度を測ってきていて、70%台にはもうびっくりしなくなっているのだが、さすがにこれは史上最低の値である。
実はこの選手は以前にも68%という数値が出ていて、無月経に対するホルモン補充療法を行っていた。しかし、この半年は行ったり行わなかったりで十分な治療ができていない。
さてこれから婦人科医としてはどのようにサポートしていけばいいだろうか。これまでの経過から、ディビゲル®と用いたホルモン補充療法を行っても骨密度維持は図れても増加は難しいかもしれない。しかしこの骨密度で競技を続けさせるのもリスキーすぎる。
私がおすすめしたのは経口避妊薬(低用量ピル、OC)である。
海外の文献には、「若年アスリートの無月経に伴う骨粗鬆症は、骨吸収の増加がないという点で閉経後の骨粗鬆症とは機序が異なる。ホルモン補充療法では十分でないが、(ホルモン作用のより強い)ピルならば骨量増加を期待しうる」という意見があることは以前より承知していた。ただしアスリートの出すうえで、吐き気、食欲増加、浮腫、体重増加などの副作用が少ないOCがなかなかなく、躊躇していた。
幸い昨年11月に登場したヤーズ®はこのような副作用が軽減されている。そこで今回、このOCを開始することにした。コーチはホルモン療法にあまり賛成でないらしいが、この骨密度でSかも実際に疲労骨折を起こしているわけだから「理想」を言ってはいられない。現実的に婦人科医ができる最善と思われるサポートをしていく必要がある。
なお整形外科主治医からは活性型ビタミンD誘導体であるエディロール®が処方が開始された。ここでビスホスホネート製剤を処方しないのは、やはり骨吸収の増加が原因ではないと見抜いているからであろう。賛成である。
2011年4月13日水曜日
「三陸海岸大津波」(吉村 昭)
Amazonでしばらく品切れしていた吉村 昭「三陸海岸大津波」(文春文庫)がやっと届いたので、一気に読了した。
今回「千年に一度の未曾有の大震災」だと思っていたけど、津波に限って言えば昭和8年にもほとんど同じことが起きていたことにまず驚き。しかも同じ3月。
明治29年のその前の大津波から30年以上経過し、津波の恐怖感もだいぶ薄れてきた頃。「晴天のときには津波はないものだ」「水平動の後には津波はない」などと「自信ありげに」動かなかった人が随所にいたようだ。最悪の事態を想定して避難しようとする人を見下すかのように、皆を安心させるのが自分の役目とばかりに自信ありげに抑えにかかる人・・・安心していい根拠はないのに・・・今回の震災でも原発事故でも、いたような気がする。人はつい「安心な」提言に従いたくなるものだ。医療、特に手術の場面においても同様のことがある。自戒したい。
さて昭和8年の場合は、いったん津波を警戒した人々の多くも15分後には、大丈夫と再び寝についている。地震から30分も経過しての、しかも深夜の津波来襲だったため、不意を襲ったかたちになったのだ。
津波から町が復興し、記憶が薄れてくると、高台に集中していた家が再び海沿いに進出してくる現象が見られたと記載されている。数十年に一回起きるかどうかわからない津波に備えるよりも、漁業活動に便利な海沿いへ住む方がラクだから。痛みが過ぎるとすぐ忘れてしまい目先の利益を追求してしまいがちな人間の悲しい本性なのだと思う。
今回医療支援で訪れた大船渡でも、津波で壊滅した地区は「津波警戒地域」と(おそらくこの昭和津波の経験から)道路上に標識で明示されていたエリアにほぼ一致していた。
これからの被災地の町づくりに必ずや過去の経験から得られた叡智を生かしていかねばならない。
今回「千年に一度の未曾有の大震災」だと思っていたけど、津波に限って言えば昭和8年にもほとんど同じことが起きていたことにまず驚き。しかも同じ3月。
明治29年のその前の大津波から30年以上経過し、津波の恐怖感もだいぶ薄れてきた頃。「晴天のときには津波はないものだ」「水平動の後には津波はない」などと「自信ありげに」動かなかった人が随所にいたようだ。最悪の事態を想定して避難しようとする人を見下すかのように、皆を安心させるのが自分の役目とばかりに自信ありげに抑えにかかる人・・・安心していい根拠はないのに・・・今回の震災でも原発事故でも、いたような気がする。人はつい「安心な」提言に従いたくなるものだ。医療、特に手術の場面においても同様のことがある。自戒したい。
さて昭和8年の場合は、いったん津波を警戒した人々の多くも15分後には、大丈夫と再び寝についている。地震から30分も経過しての、しかも深夜の津波来襲だったため、不意を襲ったかたちになったのだ。
津波から町が復興し、記憶が薄れてくると、高台に集中していた家が再び海沿いに進出してくる現象が見られたと記載されている。数十年に一回起きるかどうかわからない津波に備えるよりも、漁業活動に便利な海沿いへ住む方がラクだから。痛みが過ぎるとすぐ忘れてしまい目先の利益を追求してしまいがちな人間の悲しい本性なのだと思う。
今回医療支援で訪れた大船渡でも、津波で壊滅した地区は「津波警戒地域」と(おそらくこの昭和津波の経験から)道路上に標識で明示されていたエリアにほぼ一致していた。
これからの被災地の町づくりに必ずや過去の経験から得られた叡智を生かしていかねばならない。
2011年4月12日火曜日
JOC医学サポート部会・被災地支援報告(後)
院内は救急救命センター内でのみまだ自治医大などの応援部隊が活 動していましたが、徐々に縮小中とのこと。 先週までは各科の外来は一応急患や妊婦健診のみの対応でしたが、 来週からは内科の内視鏡や超音波などの検査外来も始まり、 通常通りの外来が復活するようです。
医局内も特に騒然とした雰囲気もなく、むしろ県立病院のドクターは自分の病院の仕事のみで、
結局2泊の県立大船渡病院産婦人科当直中は、 救急センター当番医から婦人科手術後のイレウス患者を入院させて おくとの報告を受けたのと、分娩1件だけと少々「拍子抜け」 でした。あまりお役に立てなかった感が強いです。 今後産婦人科医として応援に入るなら、 岩手医大や東北大などを通して、「 超急性に生じた分娩施設の集約化」 が起きてしまっている病院へ適切に配分してもらった方がよさそう です。地域中核病院に常勤医を送っているのは結局大学ですから、 旧来からの大学の機能が生きるように思います。
一方、3日目・ 4日目もJOCチームとして避難所の診療を続けました。 血圧測定、降圧薬内服相談、インフルエンザ検査、 イナビルの処方など、にわか内科医となりました。
現地の支援医療チームの「配置」は主に、 大船渡市保健福祉課の保健師達が行っていますが、 これがなかなか現場の実態に即した適切な対応とならない。 どうしても医者が余ってヒマにしている避難所や、 数日間医療チームが訪れない避難所などができてしまいます。 このあたりが今後の課題かもしれません。
さらに市が違えば、 陸前髙田からわざわざ治療を受けに来た女性によれば、 医療チームの姿を避難所ではいちども見たことがないと言っていま した。全体を見渡して、医療支援を必要とするところに、 割り振っていくというのは難しいです。
3月30日をもって、 大人数を誇る徳州会チームが大船渡から引き揚げていきました。 TMATと名乗るこのチームは徳州会病院の勤務者のみで構成され ているわけではなく、 徳州会の呼びかけに応じて集まった一般の医師などが過半数を占め る、ということを初めて知りました。市民文化会館を拠点に、 徳州会大船渡分院とも呼べるほどの充実した医療体制をつくりあげ ており、専用診察室を完備し、医師・ナースが24時間常駐で、 1日1回の回診までついていました。5人のドクター、 10人近くのナースに、運転手、広報、 看護学生まで揃いのユニフォームで送り出す、 しかもそれを大船渡だけでなく数都市で展開するのですから、 見事な組織力です。
3月31日からは市民文化会館をJOCチームで引き継ぎましたが 、同レベルの診療体制維持は困難でしたので、治療が必要な「 患者」はどんどん地元医に行ってもらう方針で臨みました。
開業の先生のところには通常ルートで薬剤も納入されるようになっ ていますし、 我々のタダ診療で開業医の収入源を奪うようなことはいけません。
開業の先生のところには通常ルートで薬剤も納入されるようになっ
私が大船渡へ行ったのは、被災者の直接支援から、 現地の医療体制復興の支援へと徐々に転換すべき時期だったと言え ます。
この医療体制復興支援は今後長い年月が必要です。
2011年4月11日月曜日
JOC医学サポート部会・被災地支援報告(前)
3月28日から31日まで、JOC医学サポート部会による被災地医療支援チームの第1陣として岩手県大船渡市で医療活動をしてきた。そのレポートを転載する。まずは前半。
小舟や車が民家の瓦礫の上に乗りあがっている様子には目をみはり ました。
川を逆流して津波が上がってきたようで、 川の沿岸一帯は広範囲に瓦礫の山です。
ただし、 ある程度以上の標高以上の建物は全く被害を受けていないため、 その境目の上か下かで天地の違いがあります。
大船渡の場合は町の片側は急峻な坂で高台に移行するので、 県立病院や市役所を含む高台の方は生き残っています。
JOCチームが本拠地にしている本増寺はやはり高台にあって、 現在は水も電気も復旧しており、 多くの避難所からすれば申し訳ないくらいの環境です。
午後に、県立大船渡病院の小笠原敏浩部長(副院長) にお目にかかり、2晩、 大船渡病院産婦人科の当直をすることになりました。
大船渡は開業の分娩施設がもともとなかったので、 日本産科婦人科学会から派遣している石巻などのように、 開業医での分娩予定者が基幹病院に突然一極集中するという現象は 起きていません。すなわち開業の先生で見ていた妊婦が「 飛び込み分娩」にやってくるということはないようです。
大船渡は開業の分娩施設がもともとなかったので、
もともと年間分娩数700程度だそうですが、 むしろ震災を機に内陸や他地域に転出する妊婦が増えているようで 、震災後の2週間ちょっとで分娩は14、とのことでした。
病院自体も救急患者のみの対応を行っていたのが、 今週からは一般外来も再開しています。 ただし定時の手術はすべてキャンセルで、緊急も搬送。 帝王切開と外傷のみ行っています。
したがって産婦人科病棟は時々の分娩こそあるものの、 入院患者も最小限(癌の末期数名と羊水過少の妊婦一名) にしぼられており、定時婦人科手術もなく、 分娩待機さえなければ昼間の業務はむしろ「ヒマ」だそうです。
したがって産婦人科病棟は時々の分娩こそあるものの、
合計5人の産婦人科医のうち、 1名は釜石に1人医長として出張中、部長、医長、7年目女医、 6年目女医の4名が残っています。
震災直後のいわゆる全科当直で若手2名の先生が相当疲労が蓄積し ているとのことで、 私の当直応援申し出はありがたがっていただきました。
震災直後のいわゆる全科当直で若手2名の先生が相当疲労が蓄積し
2011年4月10日日曜日
「カティンの森事件」を碑文からいつの間にか抹消
ちょうど1年前の4月10日、このブログにもとりあげたショッキングな事件があった。「カティンの森事件」70年の追悼式典に出席するためロシアのスモレンスクに向かっていたポーランド・カチンスキ大統領搭乗機の墜落事故である。
なぜ僕がこんなにポーランドやカティンの森にこだわるかと言うと、日本陸連のチームドクターとして2回もビドゴシチへ遠征したことがあるうえ、その「予習」としてワイダ監督の「カティンの森」も岩波ホールで見たからだ。 西からはドイツ、東からはロシアに圧迫され虐げられてきたポーランドの悲劇の歴史に関心を持たずにはいられない。
その1周年に当たる今日、ロシアの前時代性を示すニュースが飛び込んできた。。
いつの間にか交換…=ポーランド大統領墜落死の碑文―ロシア
時事通信 4月10日(日)10時15分配信
【スモレンスク(ロシア)AFP=時事】2010年4月10日、ポーランドのカチンスキ大統領(当時)らが乗った旅客機がロシア西部スモレンスク郊外で墜落してから1年、コモロフスキ現大統領のアンナ夫人が9日、遺族一行を連れ事故現場を訪れた。しかし、激しい雪の中で一行が目にしたのは、いつの間にかロシア側によって交換された碑文だった。
旧碑文には、スモレンスク郊外で第2次大戦中、ポーランド将校が旧ソ連秘密警察に大量虐殺された「カチンの森事件」について明記されていた。しかし、交換後の碑文からは抹消されている。
写真のキャプションには、「ロシア西部のポーランド大統領機事故現場にあった旧ソ連秘密警察による大量虐殺事件、「カチンの森事件」について明記された旧碑文(上、8日)と、抹消されている現碑文(下、9日)。ロシア側によって交換された」と書かれている。
いつの間にか交換…=ポーランド大統領墜落死の碑文―ロシア
時事通信 4月10日(日)10時15分配信
【スモレンスク(ロシア)AFP=時事】2010年4月10日、ポーランドのカチンスキ大統領(当時)らが乗った旅客機がロシア西部スモレンスク郊外で墜落してから1年、コモロフスキ現大統領のアンナ夫人が9日、遺族一行を連れ事故現場を訪れた。しかし、激しい雪の中で一行が目にしたのは、いつの間にかロシア側によって交換された碑文だった。
旧碑文には、スモレンスク郊外で第2次大戦中、ポーランド将校が旧ソ連秘密警察に大量虐殺された「カチンの森事件」について明記されていた。しかし、交換後の碑文からは抹消されている。
写真のキャプションには、「ロシア西部のポーランド大統領機事故現場にあった旧ソ連秘密警察による大量虐殺事件、「カチンの森事件」について明記された旧碑文(上、8日)と、抹消されている現碑文(下、9日)。ロシア側によって交換された」と書かれている。
1年前の事故後はさすがにロシアも気が引けたと見えて、やや大袈裟に哀悼の意を表して追悼式典を主催したり、宥和ムードを演出したりしていたが、陰ではやはりこういうことをしている。ソ連、KGBの尻尾が残っているということか。背景にはポーランドに対する蔑視も潜んでいると思われる。
日本に対しても、今回の震災直後には北方領土やガス田開発、電力供給に関して驚くほどの甘い発言がロシアから聞かれていたが、こんなのはジェスチャーにすぎないと思ったほうがよさそうだ。油断してはならない。
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